定林坊について
定林坊の歴史
定林坊は、戦国時代(1576年)に身延山久遠寺第15世の住職である日叙(にちじょ)上人によって建立されました。
当時は戦国時代の軍雄が各地に戦い、世上は大いに乱れており、身延山にもその影響がありました。
『本化別頭仏祖統紀』の記すところによれば、武田信玄が身延山へ居城を移そうとしたところ、
日叙上人はその申し出を断り、一時山は包囲され攻め落とされそうになったが、神仏の加護により事なきをえた、という逸話残っております。
安産成就の由緒
本堂には、霊鷲院日審上人の像が祀られております。
日審(にっしん)上人とは江戸時代、諸国を布教して廃寺を興し10000回以上の法話し、90000人に布教をしたというお坊さんです。
また、日審上人の出生にまつわる『幽霊子育飴』伝説が有名です。
夜な夜な一文銭を持って飴を買いに来る女性がいたそうです。
7夜目の一文銭は「しきみの葉」と化し、不審に思った飴屋が女性の後を追うと墓地の前で忽然と姿を消しました。
ある墓から赤ん坊の泣き声が聞こえたので、お寺の住職と一緒に墓を掘り返してみたことろ、壷のなかには母親の亡骸に抱かれ飴をくわえた赤子がいました。
母親は赤子を身ごもったまま亡くなり、幽霊となって六文銭(三途の川を渡るために入れられる副葬品)で飴を買いにきていたのです。
助けられた赤子がのちの霊鷲院日審上人です。
そこから「壺日審さま」と呼ばれ全国の布教とともに、その伝説が広まったことから、【子育て・安産】のご利益を頂けると評判になりました。
縁結びの由緒
当山本堂には大黒さまがお祀りされています。大黒さまもともとインドの神様でおどおどろしい姿をしておりました。
しかし、日本においては、神仏習合(仏教と神道がミックスされた日本独自の思想)が進み仏教における大黒天と神道における大国主命が同一視された結果、穏やかな表情になられ、さらに江戸時代になると米俵に乗るといった現在よく知られる像容となりました。
現在においては一般には米俵に乗り福袋と打ち出の小槌を持った微笑の長者形で表されており、縁結びの神様としても崇められています。
また大黒さまが神々の従者となって大きな袋を背負いながらイナバに赴かれている途次、赤裸となって苦しみ悩んでいるウサギに出会われ治療され助けられたという「因幡の素兎(いなばのしろうさぎ)」の話からウサギは大黒さまの使いとされております。